三國志
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中華書局1982年版三國志扉頁
陳壽曾任職於蜀漢政權,蜀漢滅亡之後,被徵入洛陽。他在西晉政權中也擔任了著作郎的職務,《三國志》在此之前已有草稿,當時魏、吳兩國先已有史,如王沈的《魏書》、魚豢的《魏略》、韋昭的《吳書》,此三書當是他依據的基本材料,蜀國無史,故自行採集,僅得十五卷。而最終成書,卻又有史官職務作品的因素在內,因此《三國志》是三國分立時期結束後文化重新整合的產物。陳壽為晉代官員,故尊魏為正統,為政治服務。在《魏書》中為曹操寫了〈本紀〉,而《蜀書》和《吳書》則只有〈傳〉,沒有紀。劉備則記入《先主傳》,記孫權則稱《吳主傳》。三國志最早以《魏書》、《蜀書》、《吳書》三書單獨流傳,直到北宋咸平六年(1003年)三書已合為一書。
[编辑] 內容《三國志》記述的歷史從東漢末年的混亂時期開始,直到西晉統一三國為止,也就是從魏文帝黃初元年(220年),到晉武帝太康元年(280年)六十年的歷史。全書共分為3部分,65卷:魏書30卷,蜀書15卷,吳書20卷。原是各自為書,一直到北宋才合而為一,改稱《三國志》。陳壽著《三國志》一書,受到大臣張華的稱讚,《三國志》在當時是私人撰述,陳壽死後,尚書郎范頵上表說:「陳壽作《三國志》,辭多勸誡,朋乎得失,有益風化,雖文艷不若相如,而質直過之,願垂采錄。」《魏志·倭人傳》係根據王沈《魏書》和魚豢《魏略》的資料寫成,記載由中國前往日本這個「帶方東南大海之中,依山島為國邑」「今使譯所通三十國」的路線,日本女王名卑彌呼,「事鬼道,能惑眾,年已長大,無夫婿,有男弟佐治國……」,又載女王國的結構、物產、法制,日本人的服飾、髮式、婚姻、喪葬習俗等,全文總字數不過兩千字,卻是現存對於古代日本的情況最早的紀錄,是研究日本古代歷史的重要史料。 但也有人責難陳壽,因其父有憾於諸葛亮,「壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父被髡,故壽為《亮傳》,謂將略非所長。」所以說他「將略非長,無應敵之才」;然而諸葛亮乏軍事才能,在今日看來確是卓識。唐朝房玄齡撰寫的《晉書·陳壽傳》,承認陳壽「善敘事,有良史之才」,又認為陳壽因為私仇而在書中有所表現。說「丁儀、丁廙有盛名於魏,壽謂其子曰:可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。丁不與之,竟不為立傳。壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髡,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才;言瞻惟工書,名過其實。議者以此少之。」至於《三國志》對於晉朝皇室的敘述時有曲筆、粉飾,則屬事實,備受批評。《三國志》沒有撰述典章制度等方面的〈志〉和〈表〉,是個缺失。 陳壽治學嚴謹,收集來的材料凡是覺得可疑的,寧肯不用。陳壽死後百餘年,三國史料大量出現。《三國志》內容精潔,三書很少重複,然宋文帝認為太過簡略,故詔令裴松之作注。松之收集各家史料,「繪事以眾色成文,蜜蜂以兼採為味」,彌補《三國志》記載之不足,清代《四庫提要》將其所用方法,分析為六類:「一是引諸家之論,以辯是非;二是參諸家之說,以核偽異;三是傳所有之事,詳其委屈;四是傳所無之事,補其闕佚;五是傳所有之人,詳其生平;六是傳所無之人,附以同類。」裴松之作注所根據的史料,可考者多達一百四十餘種,較《三國志》原書多出三倍(有學者認為注文並未超過正文)。宋文帝驚歎為「不朽」之業。宋代司馬光在《資治通鑑》中所描寫《赤壁之戰》乃是綜合陳壽《三國志》中各有關人物傳記和裴注所引的史料編撰而成。 [编辑] 對後世的影響[编辑] 三國演義元人羅貫中在民間傳說、話本、戲曲的基礎上,依據陳壽《三國志》和裴松之注的正史材料,加上他自己的才學和經驗,寫成部影響巨大的《三國志通俗演義》,又名《三國演義》。《三國演義》中的歷史事作和人物,大都是真實的。但其中也有不少內容和情節是,來自諸多傳奇、戲曲、民間說法。所謂「七實三虛」。但《三國演義》對民間的影響遠高於《三國志》。 [编辑] 三國志集解近人盧弼彙集歷代學者對《三國志》正文和裴注所作的註釋、版本校勘和考證,並將盧本人的註釋和按語統一編纂為《三國志集解》。 一些非中文的文字因为尚未翻譯而被隐藏,歡迎參與翻譯。
『魏書』東夷伝には「魏志倭人伝」と通称される部分があり、そこに邪馬台国の記述が見られる。魏のみに本紀を設けているように、三国のうち魏を正統としている。しかし、魏を正統とする類書は『魏書』など魏単独の表題とし、蜀漢や呉は独立した扱いを受けていない。また、中国の南半分しか支配していない東晋を扱った正史『晉書』も、北朝の諸国家はすべて「載記」(地方の覇者の伝記)として扱い、やはり独立した扱いを受けていない。 なお、『蜀書』の末尾には楊戯の『季漢輔臣賛』を付している。季漢とは末っ子の漢という意味で、蜀漢を指す。蜀漢の優れた人物(例外あり)を称えたもので、本文の補足として使われている。また、それだけではなく、『季漢輔臣賛』収録には、蜀漢の遺臣である陳寿の故国顕彰の気持ちが現れているという。 現存している写本は、5世紀に裴松之(はいしょうし)により校訂・注釈を施されたもので、紹興本と紹煕本がある。紹興本は、南宋の紹興年間(1131年~1162年)に筆写されたもので、紹煕本は、紹煕年間(1190年~1194年)に筆写されたものをいう。 陳寿は三国志を記述するにあたり、民間伝承など正統でない史料を排除したために、三国志は非常に簡潔な内容になっていた。そこで、南北朝時代の宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉六年(西暦429年)上表と共に提出した。裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明する注は少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが、信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、講談の題材にも取り入れられていった。
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後にこのような講談などから発展して作られた通俗小説である『三国演義(三国志通俗演義)』が日本では「三国志」として流通し、また作家吉川英治が演義を元にして著した小説『三国志』があまりにも有名になったため、日本の三国志愛好家の間では、三国演義やそれにもとづいた文学作品を『三国志』あるいは『演義』、歴史書の方を『正史(あるいは正史三国志)』(ただし、正史とは王朝が正式に認定した歴史書の事で、三国志だけを指している訳ではなく、史記や漢書なども正史と呼ばれる)と呼び分けることがある。この経緯についての詳細は、三国志の記事を参照されたい。 ただし、本来、『三国志』と呼ばれるのは陳寿による『三国志』であり、『三国演義(三国志通俗演義)』(日本では三国志演義と呼ばれるが中国では三国演義(三国志通俗演義)と呼ばれる)を三国志と呼ぶのは誤用である。 [编辑] 裴松之在註解中所引用的主要文獻
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